原宿駅舎、96歳に捧ぐ

世界最大の都市・東京は、いつも変化が激しい。
100年残るものなど無いかのように見えながら、探すと400年の歴史を感じられる、そんな街。

都心の片隅に、ひっそりと、いや、騒々しさの中に佇む小さな木造の建物も、100年の歴史を繋ごうとしていた。

休日の夕方、人混みの中の原宿駅舎
騒々しさの中。平成25(2013)年1月

山手線、原宿駅。

令和2(2020)年8月の現在、あと1週間でこの木造の建物の紡いできた歴史に終止符が打たれることとなった今、それまでに考えてきたことを振り返りたい。

昭和39(1964)年、小さな駅舎は東京オリンピックの表玄関となっていた。
高度経済成長の中、「殺人的」なラッシュに小さな駅舎は限界を迎えていた。

……が、なぜか、不思議なことに、機能的な駅舎に建て替えられることはなかった。

高級住宅街だった原宿の街は、いつの間にか若者のファッションの街と呼ばれるようになり、令和のいままでずっと、「ヨーロッパ風のかわいい駅舎」はその風景の一部となっていた。

そんな原宿駅に変化が迫ろうとしたのは、平成28(2016)年、初夏のこと。

このとき、6月5日は、新聞等のニュースに出た段階。
6月8日、新駅舎の概要が発表される。
2度目のオリンピックに備えた「遅すぎる」新駅舎の登場だった。

しかし、このときは、旧駅舎が解体の危機にあるとは、露とも思っていなかった。

風向きが怪しくなってきたのは、同じ年の9月。

新駅舎が着工される平成29(2017)年1月になって、悲観的な見方が出始めたのです。

でも、この時点では、私は楽観的でした。
所在地の渋谷区とJR東日本の間で保存方法(文化財指定と、保存にかかるお金の出どころ)について調整が終わるまでなにも発表できないものと理解していましたから。

それから、2年半。
年後もかわり、オリンピックの開催が迫った令和元(2019)年の秋のこと。

この時点で、商業施設としての開発が念頭に置かれていたそうです。
いわゆる、腰巻きビル。
面影がなくなるよりはマシではあるのですが、歴史を残していると言えるのか…

それで、淡い期待をしてしまいましたが、正直、保存運動としては遅きに失したと言わざるを得ないもの。
この2年半の間、私がそうだったように、多くの方が楽観的に構えていたのでしょう。
ましてや、私は渋谷区民でも東京都民でもない完全な部外者で、建築家や学者のような(業界内での)影響力もない。

そして間もなく、このような報道が出ることになります。

そして4月、決定的な記事が出ます。

狭い敷地で、商業ビル化…ということで、建て替えられる姿にに全く期待していなかったのは、この通り。

ところが、JR東日本(と、JRE設計?)は、本気でした。
渋谷区が文化財指定させなかったことへの無念を感じていることが伝わるほどに。

ぼやかしている右側に、商業ビルを1棟の建物として建設し、旧駅舎復元部分をその入口として使うのでしょうか。
駅舎の「ゲート」としての役割を意識した、好ましい計画に見えます。

しかし、表面上好ましいからこそ、もやもやとした思いが浮かびます。
このような「復元」を決めたということは、今ある本物が移築されることもなく完全に消えることと同じなのですから。

【2020/8/24追記】

そして、解体前日となった8月23日、ひとり、東京に行ってきた。「コロナ禍」のなか、人に会わず、ただ街を歩き、ただ建物に会うための旅に。

静かに佇む、雨の朝。
きょうは皆、スマホを横に向けて構える。
新しい駅舎から見るこの存在感は、ひとときの刹那だった。

この建物を遺せなかった事情も、愛されて来たことも、そして所有者のJR東日本が真摯に向き合ったこともわかるだけに、きょう8/24に始まる解体は、切ない。